ぴんくのくまがいる

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『赤毛のアン』 創造的な「家族」のかたちへの希望

前回も書きましたが、赤毛のアンについてはアニメや映像もさることながら、主に母からの口伝(くでん)によって、幼いころから摂取してきました。まるで更級日記の少女が、源氏物語を母や姉から聞いて育ったのにそっくりですね(笑)私は彼女のように原作をどうしても読みたい!と思ったりはせず、かなり受身で消極的なインプットでしたが。

 

中学三年生のときに両親が離婚し、「結婚」についてすでに懐疑的だった高校生のころには、赤毛のアンのグリーンゲイブルスは「家族」の理想のかたちなのではないか、とひそかに考えていました。兄、妹、養子。既存の「結婚」にとらわれない固有の関係性からなる共同体。オーソドックスでない、かたちの中にこそ物語が生まれ、創造や参加の余地できること、「自由」を感じられることが、私にとっては「幸せ」なのです。

 

そうした既存の「家族」「結婚」「女性」という価値観に疑問を投げかけるような物語の設定ができるのは、作者モンゴメリが女性として人生を過ごしてきたからこそなのでしょう。

 

人間を生み出すのは女性ですが、社会は古来男性の作った枠組み、考え方、作品がほとんどで女性の芸術作品にもそういった価値観は浸透していますが、やはり女性が作ったものに希少価値があることは多そうです。私は特に女性が作った作品で、しかも既存の男性社会の価値観を踏襲しないような展開や発想があるのを発見するとすごく嬉しくなりますし、おもしろい、新しい、攻めていると感じることがあります(男性の作品の中にもそういう部分を探して見つけては喜んでいます)。

 

たとえば、赤毛のアンでは最後の方で、マシュー亡き後、年老いたマリラが隣人のリンド夫人と暮らす、というアイディアが登場するところ。アンが自分の意志でマリラの支えになると決めるのはもちろんすばらしいことだと思いますが、マリラがアンにそれを強いてのことではないということがさらにすばらしいことだと思います(マリラには、アンがいなくても自分の持てるもので柔軟になんとかするという意志がある)。二人の関係性が心の底から信頼できるものであることを感じるエピソードです。

 

こういうくだりが大人の都合で政治利用されるとき「ほらアンもそうしたのだからこどもは世話になった親の面倒を見るべき」的な教訓として安易にとらえられがちだと思いますが、「教え」とか「教育」というものは学ぶ人からの尊敬語なのであって、自分で「教える」と言うひとほどうさんくさいものはないのです。面倒を見るから偉くて、そうじゃなければ親不孝だとか、そうやって他人の言動の評価、批判、コントロールするのに使うのではなく、お互いが愛のある努力、民主的で創造的な人間関係を通して考え、学び、成長、成熟した結果、ゆるぎない信頼関係を築けていることに「美しさ」をみるべきなのです。(べきとかいってうさんくさい)自分が誰かとそういう関係性を築くための理想のイメージ図を、物語は示してくれているのです。

 

アンも得意だった空想や物語は現実から離れた、単なる現実逃避の手段ではなく、自分の中の固定観念を打ち砕き、無意識に自分の手足にはめていた枷をはずしてより自由に動けるようになるための薬(毒)であり、きわめて実用的な効果があるのだ、あるものが好きだと私は思っています。

 

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※「ポリアモリー」の考え、試みにも通ずると感じました。

zubunogakkou.hatenablog.com

 

赤毛のアンの続編は、本編が大いにヒットしたために出版社からの依頼で書いたものなので、アンがギルバートと結婚したあとたくさんこどもを産み、子育てに追われるという話を大まかに聞いてもあまり心惹かれないのですが、もうひとつ私にヒットしたのは、教師になったアンがついに「校長になる」という展開です。これは自分が校長に(自分で)就任したことと重なって本当におもしろい、斬新な展開だと思いました。

 


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